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(みかづきだより第28号より)

瀧神社より、参道を210号線へと引き返して行く。その昔より、かなり歩きやすいであろう道をテクテクと歩くと、かつての魚返村に着く。かつて、郷土史には魚返町とも記されているとか。

玖珠川の北岸一帯は、中世の清原魚返氏一族の所領地であり、魚返氏は、始祖正高の子、正通の流水を汲む粟野氏より魚返氏に分かれ、魚返村を領有するのは、小田三郎成道の子、魚返三郎成秀が魚返氏の祖である。

数百年の昔、戦国の世頃までは、魚返一党の多数の武士等が住んでいたであろう。魚返一党の戦史は、遠く文永・弘安の役(延元元年)伐株山の戦い、さらに建武3年、玖珠郡の清原氏は、南朝と北朝に分かれて戦う。

魚返氏は南朝方として玖珠伐株山に立てこもり、戦に敗れた南朝方は、領地は没収され、魚返氏も当然領地を没収され、北朝方の勲切のあった将士に分配されたのである。

その後、魚返氏は住み慣れた魚返部落を追われるようにして朝見に逃れて来たことであろう。

又、古老の話によると、朝見への途中に「ナキド」という地名が残っており、ひ弱い女性、子供達が泣きながらやって来た名残といわれている。

 


 

魚返氏は小田氏の庶流で、小田三郎成通の子成秀に始まる。成秀は玖珠川の支流浦河内川流域に進出し、魚返村を開拓し、魚返氏と称した。次いで、戸畑村ほか玖珠川北岸の地を、次々と開拓した。北山田小学校の裏山は魚返城址といわれ、この辺り一帯が魚返氏の拠点となったと考えられる。

建武3年(1336)、魚返宰相坊は小田顕成と共に8ヵ月間玖珠城に籠もり、宮方の兵糧確保に当たった。この時、魚返氏で武家方に味方したのは二郎三郎惟通で、戦後魚返村の一部を領有した。

(中略)

大友氏改易後、魚返氏は名字の地を去り、奥深い朝見岳の新天地に帰農した。朝見岳は日田郡との境に位置する山間の集落で、家々は尾根の近くの切り立った山腹にへばりつくように点在している。この地の住民は大部分、魚返氏である。「山ノ神ノ本家」と呼ばれる魚返覚氏が魚返一族17家の本家であり、江戸時代には戸畑の組頭を勤めた。

~玖珠町史(上巻)より抜粋~

s 魚返城入口

魚返城入口